昭和42年9月7日 朝の御理解
御道の信心は、朝参りから、皆さんもこうして、毎朝、朝の御祈念におまいりが出けられます。皆の、その事だけでも有難い。朝の清々しい、いー、ひと時、朝の清々しい雰囲気の中に、信心の稽古をさせて頂こう、というのでございますから、ほんとに、御道の信心は、なるほど、朝参りからだと、その、朝参りが出来なかったら、あー、ほんとの金光様の信心の有難さは、どんなに、いー、雄弁にお話致しましても、どんなに有難さを願うておっても、本当のものじゃないとさえ、私は思います。そういう意味で、皆さん、本当にあの、恵まれておられるところまでですね。ですから、折角のその、朝のお参りでございますから、その朝のお参りが、あー、一日中の生活の中に、生き生きとして、願わくば、清々しゅうありたいものでございますけれども、そこは、人間の事でございますから、確かに朝は、清々しい有難さの中に、浸らせて貰うて信心の稽古させて頂いたんだけれども、ま、昼の忙しさにまぎれましたり、または、夕方には、えー、信心でいう、その有難さとか、清々しさというのは残っていない。ですから、そこを仕方がないとこう言わずに、そこんところを願い続け、そこんところを、おー、頂かせて貰う喜びを、おー、日々の体験の中に頂いていきたいと、そんなふうに思います。朝の清々しさ、昼の忙しさ、夜の有難さと。
今朝、御神前に出ましたら、朝顔の花が一杯こう咲いておる。それこそ朝露を含んだ、朝顔の目が覚めるような感じの情で、それからあの、次に、あれはなんと申しますかね、あー、夜叉の、こう角の生えた面がございますね。夜叉、あの夜叉の面と、それから、あのお多福さんのような面と二つが、こう掛けてあるところを頂いた。それから次に、えー、あの夕顔の花がですね。もうそれこそ、夕闇に怪しいまでの、その、ぽっかりと大きな大輪の花を咲かせておるといったような、情景を頂きます。朝と夕方のことは、まあ大体分かりますけども、昼のその、夜叉の面とか、お多福さんの面とは、どういう風なことであろうかと私は思いましたんですよ。皆さんはどういう風に感じられますか。どうでもこうしたその、御祈念にお参りが出来ておるのでございますから、この清々しさ、この清らかな、あー、気持ちで信心の稽古が出来た、それをです、私は、本当に、頂き続け願い続け、ね。えー、信心が頂きたい。ところがそこは人間ですから、例えて申しますなら、洗面器に朝の冷たーい、井戸の水を汲み出したような感じでございますね。そういう、冷たい清らかな感じですけども、それが、一日おいておる間には、生ぬるなりましたり、濁ってまいりましたり致します。それじゃ、まあ私共が、こう思うのでございますけれども、けれどもやはりその、えー、一日の、その御用の中にですね、一生懸命の私は、御用を、おー、さして貰うという、いわゆる、昼の忙しさ、そういう、そのおかげを頂かせてもらわなければならん。清々しさというものは、まあ、朝のひと時でありましても、朝顔の花がもう、もう少し日が照りだしますと、つぼんでしまいますようにですね。けれども、日中のその、忙しいなかにも、やはり、信心を持っても忙しくなからなきゃならん。その、夜叉の面と、そのお多福さんの面とを私、えー、頂いてから、そんなふうに感じたんです。ね。例えて言うならば、本当に、えー、まあ、根性の悪い人と合うようなこともございます。それかといって、夜叉の面が言うように、その、いわば、歓喜の事もございましょうけれどもです。そういう時にです。人の不行状を見てわが身の不行状になる事と仰るように、ああ、あんな根性の悪いような心が、私の心の中にもあるのじゃなかろうかと、言うような反省が、仕事の忙しいなかにも、必要じゃなかろうかと。あの人はずるい人だなと。こすい人だなと。いや、あのずるいと、こすいと思うておる、そういうような心が私の心の中にあるんじゃなかろうかと。ね。また、ニコニコとしたお多福さんのような、その情景とか、そういう場面にあった時にはです。ね。それこそ、信心はなかってもです。もう、本当に、いー、何か清涼剤でも飲んだ、あー、時のような、そのー、清々しいものを、その人から、またその事柄から感じるようなことがございます。ほんとに信心は分かっても、ほんに信心のある私共が、あー、手本にしなければならないようなことを見たり聞いたり致します。そういう時に、私どもは、いよいよ、そのニコニコとした福々しい心の状態で、御用に一生懸命取り組まにゃならないのです。というようにですね。もう見るもの聞くもの、その中から神の声を聞き、その中から神の姿を見て行くような、私は、一日だありたいと思うのです。ね。どんなに忙しい、ああ、忙しい忙しいと言う、その御用として頂きながらもです、ここのとこだけは私は、失ってはならない。その清々しさや、ま、無いに致しましても、ね。朝顔の、この清らかな気分は、持ち続けることは出来なくてもです。日々の、ね。御用の中に、仕事の中に、そういうような私は心の状態、いつも神様を求める心が、お仕事なお中に、一生懸命忙しい働きの中にです、ね。ずるい人だったら、あのずるい、あの心が、この人はどうしてずるか人じゃろかと、どうして根性の悪い人とじゃろかと、というだけじゃなくてです。ああいう根性がね、ずるい心が自分の心にあるのじゃなかろうかと、言う訳なんです。そこにはもう、神の声を聞いたのと同じ事であり、ね。なんと福々しい、いー、表現であろうかと。なんと言うニコニコとした顔であろうかと。ああならにゃいけんな、私の心の中には今、福々しいと言うような和賀心と。ニコニコとした心が、かげておた。やっと自分の心を取り直して頂くようにです、そこにはもう、神の姿を見たのと同じことなのです。ね。そういう、いわば、精進の中に、一日が忙しい忙しいと言う中に、一日が終わらせて貰う時、初めて、朝の清々しさ、昼の忙しさ、夜の有難さという、それこそ、夕顔の花にも似たような、信心もできんのに、ね。一日を終わらせて頂きまして、今日も一同のものが、健康に御用させて頂きまして有難うございましたと。今日も一同がおかげ頂きまして有難うございましたと、こう、お礼を申させて頂いておるとです。自分のどこから、こういう有難い心が湧いて来るであろうかと、いうような自分の不思議なくらいな、いわば、有難いという心がです。一日を締めくくらして頂くというようなおかげを、頂きたいとこう思います。それには、やはり、私は金光様のご信心は、なんと言うても、朝の御祈念、ね。これがなされて、どうぞ今日も一日、清々しい一日でありますようにと、清らかな一日でございますようにという、もう、日々の祈りが、願いがです。ね。ま、時々願うわけには行きません。もう、日々願わなければ、私共の心はもう、冷たい水がぬるうなって、濁ってしまっておるのでございますから、これはもう、日々、願わなければいけないことなんです。今日もどうぞ、もう、朝から、眠うして応えんといったような信心では無くてです。ね。もう、せめてその、朝の御祈念ぐらいは、清々しい御祈念、清々しい信心の、心での信心の稽古。でなかったら、また、眠いとが一日のうちに続いてから、ね。もう、昼からでも、ちょっと横になろうかといったような事になって来るのですよ。ね。そんこのところを、お繰り合わせ願わなきゃいかんのですよ。そこんところを、おかげ受けなきぃけません。ね。そのためには、先ず、朝の、言うなら、朝のお参りしておる人全部が、清々しいものを頂いて帰るかというとそうじゃない。ああ、もう、今日の御祈念の時は、眠かった眠かった、もうずーっと初めから最後まで眠かった。御理解は、どげな御理解じゃったじゃろか、いっちょん耳には入っとらんというような事ではですね、やっぱ駄目なんです。ね。本当に、御神前にでらせて頂いて、その朝の清々しさが、そのまま、御祈念の中にも、清々しい御祈念が出来る。そこで、願わなければならんことは、今日も、どうぞ、清々しい一日でありますようにと祈りに願わせてもらい、それでもやはり、その、冷たい水が濁ったり、ぬるうなったりして行きますように、なりますけれども、そこんところの、一生懸命に忙しい御用をさせて頂きます中に、願わせて頂きます事がです。只今申しましたような、ね。神の姿を見、神の声を聞かせて貰うというような状態が、仕事の中に人に対する、その場合にです、頂けるのでございますから、ね。いわゆる、お仕事をさして頂く中に、信心の稽古をさして頂く。そして、一日、今日も忙しい一日であったと。私だけではない、家族中のものが健康のおかげを頂いて、御用頂かせていただいたという、私はお礼が御神前に申し上げられる時です。ね。本当に、自分の心の、どこにこういう有難いものがあったであろうかというような有難い心が、それが丁度、夕闇に怪しいまでの真っ白い花を咲かせる、夕顔の花のように私の心の中に、有難いものが頂けてくる。その、有難いという心が、また、明日の朝の、いわば、明日の原動力ともなる。朝の御祈念の清々しさにまた、お引き合わせを頂けるところの原動力にもなる。そういう日々をですね。繰り返させて貰うおかげ。それがいよいよ、本当のものに成って行くところにです。私は信心があると思うですね。どうぞ。